日本音楽学会・旧「東北・北海道支部」の歩み |
音楽学会東北支部設立の前夜 | 古賀 ルイ子 |
私の手元にかなり黄ばんだ数冊の雑誌が大切に残っている。昭和26年4月発行、美学会編「美学」特輯音楽美学一一目次をみると辻荘一「音楽様式のめぱえ」、張源祥「音楽の本質」、土田貞夫「音楽における創造」、服部幸三「音楽史学に於ける時代様式の問題」があり、海外通信として野村良雄先生がヨーロッパの音楽学の現状を伝えておられる。それから同じ昭和26年7力発行の「理想」特集現代の美学一この中には「音楽的創造」という土田貞夫氏の論文がある。少し間をおいて、昭和31年11月発行の「フィルハーモニー」一一内容をみると「ブラームスとハンスリック」丹羽正明、基本文献紹介「バロックからクラシックヘ」服部幸三、新人評論「歴史と現代におけるバッハ」角倉一期がある.12月発行の同誌には「オラトリオの伝統を支えるもの」野村良雄、「歩みゆく影」海老沢敏などがある。これらは私が手にしたさいしょの音楽学の学術論文であり、私にとって初めての音楽学との出会いであった。 その頃、私は教会音楽の夏期講習会に出席した。東京女子大学が会場だったと思うが、そこで、「ポリフォニの音楽について」の皆川達夫氏の極めて明快なお話をきき、今まで頭の中で雑然としていたその時代の音楽の全容が突然はっきり整理されたことを覚えている。その頃の私はレクイエムのことを調べていたので帰ってからすぐいくつかの質問を皆川先生に申し上げたところ、早速、御返事をいただき、その最後に「私は来週アメリカに出発しますが、音楽学会というものがあります.そこに入会されるともっといろいろな学徒に教えられる機会が得られると思います」とつけ加えられてあった。私は先生の御親切な手紙に感激し、すぐ入会の手続きをとった。昭和30年の音楽学会名簿に私の名前があるところから考えてみると、これは昭和29年頃のことであると思う.昭和27年に音楽学会が発足して二年後のことで、当時皆川先生は音楽学会の幹事として働いておられたことが後になって分った。こののち私は音楽学会に出席する度に真摯な学究者の研究発表に目をみはりその体験を何とか私の周囲の人々にも拡げなけれぱと思いはじめ、当時私が勤務していた宮城学院女子大音楽科の科長代行であった阪田勝三先生(元、宮城学院女子大学長、現在日大教授、文理学部次長)に宮城学院でも研究活動を活発にしたいとお話したところ、学校の予算の中では実現はむつかしいので、例えば、音楽科の教師と学生を会員にした音楽科音楽学会というようなものをつくり、年会費を300円位集め、その中で講演その他企画してはどうかという提案があった。こうして昭和31年4月、宮城学院音楽科音楽学会というものができたのである.学会委員の教師と学生代表が集まり、東北大や新聞社、放送局の仕事で来仙する学者、評論家、作曲家を講師として依頼し、講演などの企画をした。学生や教師会員によるささやかな研究発表も試みた。当時東北大美学研究室の主任教授であった故村田潔教授の積極的な御好意を得て、東北大の連講に来仙された辻荘一先生をはじめ、野村良雄、土田貞夫、平島正郎諸先生方は、東北大の講義が終った後、宮城学院音楽学会のためにもこころよく講演をして下さった。その頃、企画の中心になって働かれたのは現在宮城学院女子大名誉教授の伊藤久子先生と、現在関西在住の奈良文化女子短大音楽学科教授小清水礼子(旧姓高野)先生であった。伊藤久子教授はその後、音楽学会東北支部設立と同時に副支部長に就任した。宮城学院はキリスト教主義の大学で、その中にピアノと声楽実技を中心にした小さな音楽科があった.東北で唯一の4年制大学の音楽科であり、音楽科創設以来、来日した外人宣教師などにより、早くから外国の新しい、幅広い音楽がとり入れられ、音楽専門の外人教師やアメリカに留学経験のある日本人教師の多い音楽科であった。楽理科こそなかったが、音楽実技に学的な裏づけを豊かに願う風潮があったし、又新しい未知の音楽を知りたい願望も強かったように思う。音楽科音楽学会ができた頃の記録はもう学校には残っていなかったが、先日長野節子さん(旧姓大宗、元宮城学院女子大音楽科助手、音楽学会幹事)のところから、当時の記録が見つかったので資料としてここに付記する。 第1回例会1956年(S.31)7月10日「バッハの教会音楽の概窺」辻荘一 第2回例会1956年(S.31)12月3日r音楽における創造性」土田貞夫 第3回例会1957年(S.32)2月5日「日本と西洋の音楽」山根銀二 第4回例会1957年(S.32)5月4日「べ一トーヴェンを中心とするピアノ音楽」野村光一 第5回例会1957年(S.32)9月11日「現代音楽のあれこれ」伊藤久子・高野(小河水)礼子 「(20世紀音楽研究所主催)軽井沢現代音楽祭に参加して」斉藤(古賀)ルイ子 弟6回例会1957年(S.32)11月7日 大学祭参加「ロマンチストとしてのべ一トーヴェン」辻荘一 第7回例会1957年(S.32)12月9日「現代音楽の美学的考察・現代音楽の技術的考察」黛敏郎 第8回例会1958年(S.33)5月22日「現代人の音楽観について」村田武雄 第9回例会1958年(S.33)11月7日「現代音楽について」柴田南雄 第10回例会1959年(S.34)5月22日「バッハとモーツァルト」辻荘一 第11回例会1959年(S.34)8月31日「新しい音楽の聴き方」シュトッケンシュミット その後記録が途絶えるのだが、昭和34年から二年越しの交渉の結果、次の企画が実現した。 第12回例会1961年(S.36)1月30日 大学祭参加「ある作曲家の生活と意見」芥川也寸志 これはすでに、宮城学院の音楽学会が東北支部に移行した後の例会になってしまった。 昭和31年に発足した宮城学院音楽科音楽学会の歩みは以上の様な経過をたどった。ここで少し私の個人的な経験にふれることを許していただきたい。昭和33年4月より、私は一年間芸人の楽理科に内地留学し、そこで神保常彦先生、辻荘一先生、服部幸三先生、渡部恵一郎先生方の素晴しい講義に接することになる.その頃私はバッハの晩年に深い興味をもっており、「音楽の捧げ物」を研究課題としていたが、無知のなせる業で、その頃楽理科の専攻生であった東川清一、角倉一朗御二人の前にまるで同輩のような勢いで名乗りでたなど今考えても消え入りたいような思い出である。とまれこの一年間で私はもはや学問するには手遅れであったことを理解しつつ、それと同時にますます音楽の学的研究の重要性を感じながら昭和34年仙台に戻った。この頃から音楽学会の東北支部をつくろうという話が具体的に持ち上がり始めていた。当時音楽学会会長であった辻荘一先生の熱心な働きかけがあった。今まで積み重ねられた宮城学院音楽学会を基盤として、東北地方の音楽学の啓蒙的働きをなすべく音楽学会東北支部設立をおすすめいただいたのである。しかし東北支部設立については当時学会本部の若手研究者の反対があったことを記憶している。「貴女が"音楽の捧げ物"をもって全国大会で発表したとき東北支部の存在を認めるが..」と言われた角倉先生の言葉は、私に課せられた果たせぬ永遠の課題としていまだにしっかり心にとどめてあるし、また、丁度支部設立の頃東北の地を去ろうとしていた敬虔な音楽学者松本総女史から何度か音楽学の日本の現状を憂う手紙をいただき、東北地方の将来のために頑張ってほしいという熱い支援があったことも私の記憶にしっかり残っている。これから後の支部設立のいきさつについては「音楽学第6巻1」に詳しく記されているのでここでは省くことにするが、辻会長の陣頭指揮で、当時芸大楽理科の助手だった渡部恵一郎氏、岩井宏之氏の御二人が何度か仙台に泊まりこみで設立事務とその記念の全国大会の準備一切をして下さったのである。初代支部長には当時日本学術会議会員であり北大教授であった結城錦一先生を迎え、副支部長には秋田大学教授故金田茂氏、宮城学院女子大教授伊藤久子氏、委員には宮城学院女子大の瀬戸寛子氏、三島学園大学の故大波建久男氏、古賀ルイ子が委嘱され、顧問に前述の阪田勝三氏、村田潔氏が、幹事は丸井美智子、高橋とみえの諸姉がこれに当たり、事務局は宮城学院女子大学音楽科におかれることになった。 音楽学研究者の少ない東北の地に果たして音楽学会というものが成立するのか、啓蒙的意味を持つ設立理由が、いつまでも啓蒙時代であってはならないのではないかということなど、前途に沢山の不安と疑問はあったけれども、大勢の人々の力により、一方では宮城学院音楽科音楽学会の発展的解消という形をとりながら、音楽学会東北支部の設立をみるに至ったのである。 |
東北北海道支部設立の時 | 渡部 恵一郎 |
東北支部(現在の正式名は東北・北海道支部)が正式に発足したのは昭和35年(1960)6月4日である。東北支部設立のいきさつについては、「音楽学」第6巻(1)の「学会記録」(40-41頁)に土田貞夫氏による記事がある。それによると支部設立への気運は「数年前からあった」ということであるが、学会役員会でこのことが議題としてとり上げられる迄の具体的な経過は定かでない。昭和31年(1956)10月29日に学会から宮城学院女子大教務部長(当時)阪田勝三氏宛、学会の会則が送付されている事実があることから、おそらくこの日時が学会としての非公式な活動の第一歩であったのではないか。 昭和31年(1956)といえば、宮城学院女子大の「音楽科音楽学会」の設立された年である.この「学会」は、宮城学院女子大を中心とする仙台地方のいわば地域活動であり、東北大学文学部美学科における集中講義に出張した辻荘一氏、野村良雄氏、土田貞夫氏、山根娘二氏、野村光一氏をはじめとして、黛敏郎氏、芥川也寸志氏、村田武雄氏、柴田南雄氏、平島正郎氏、シュトゥッケンシュミット氏等東京在住ないし滞在の音楽文化人を招いて行われ、東京と仙台の音楽文化をつなぐパイプの役割を果たすものであった。昭和31年(1956)7月10日にはここで辻荘一氏がバッハの教会音楽について講じており、12月3日には土田貞夫氏がやはりここで講演を行っている。東北支部設立にいたる前史については古賀ルイ子氏の文章にゆずるが、「音楽科音楽学会」と音楽学会との接触は、音楽科音楽学会の設立当初の時期から主として辻氏ならびに土田氏によって行われたものと見てよいであろう。事実、支部設立にあたってそのプランを具体的に遂行したのは辻荘一氏であった。筆者は当時学会委員として辻氏の下でその任務にたずさわったのであった。 支部設立について学会の役員会が正式にこれを議題としたのは、設立のわずか2ケ月前である。このことを見れば、設立の具体的な業務がいかに急ピッチで行われたかがわかる。それ以前の会計帳簿には、東北支部設立に関する出費の記録は見られない。昭和35年(1960)4月7日東京芸大会議室で行われた本部役員会は、第11回全国大会を宮城学院女子大学で行うことを決定し、ただちに設立の準備にとりかかった。当日の記録はきわめて簡単に、「東北会員中より東北支部設立の要望があったのでこれを認め、東北在住の現会員を発起人として本部が強力に運動を推進することに決定。このため4月11日に辻理事が、又4月24日に渡部委員、岩井〔宏之〕幹事が東北に派遣される」と記している。この時出席者は辻、土田、野村、岸辺〔成雄〕(以上理事)、櫻林〔仁〕、渡部、丹羽〔正明〕、海老沢〔敏〕、植村〔新三〕(以上委員)、新山〔明子〕、諏訪〔玲子〕、東川〔清一〕、岩井(以上幹事)の13名であった。 上記「東北支部会員中より....要望」というのはもちろん宮城学院女子大音楽科のことであり、学会は理事会決定以前に、東北および北海道在住の会員から支部設立に関して公式に意見を徴したわけではなかった。それは決定後に行われた。4月11日付加藤成之会長名で東北6県在住会員に宛られた文書はその間の事情をつぎのように記している。 「....仙台在住の会員数名からこれ〔第11回大会〕を機会として東北支部を設立してはとのお申し出もあり、また理事会もかねて希望していたこともありますので、東北在住の会員皆様の毎唾力を期待しながら、4月7日の理事会で東北支部設置の方針を定め、実行に移すことといたしました。本来ならぱあらかじめ皆様めいめいのご意向をうかがうべきでありますが、日限も迫っておりますので、上のように処置いたしました。本会発展のためよろしくご諒恕下さい。....」(辻氏筆跡) そしてこの文書は4月17日に仙台において音楽学会東北支部設置準備想談会を開催する旨を伝え、同日辻氏は仙台に赴いたのであった。しかしこの設置準備委員会の記緑は残されていない。ただ、5月5日役員会記録における辻理事の仙台出張報告によれば、「支部長選定問題(副支部長をおくか)結城氏予定?顧問制を設立したし。(村田、坂田)」とあるから、この問題の詰めが仙台で行われたものと見られる。新支部の支部長の置き方については様々の問題があったようである。宮城学院女子大の音楽科音楽学会が新支部の母胎であるとすれば、その関係者からということになろうが、全国的な組織としての学会の支部長となると話は別である。そこで、支部長の下に複数の副支部長をおくという妥協案へと話が進んでいった。音楽科音楽学会の中核であった阪田勝三氏(当時宮城学院女子大教務部長兼音楽科長代行、現日大文理学部次長)、それに仙台在住の村田潔氏(当時東北大学文学部美学美術史主任)がいずれも音楽学の専門家でないことから両氏は結局顧間ということになった。顧問という制度はそれ迄の学会には存在していなかったので「顧問は便宜的なもので正文化されるものではない」という条件のもとに6月4日の総会で決定されたのであった。顧問に加えて、音楽学ないしは音楽の分野から秋田大学の金田茂と宮城学院女子大の伊藤久子氏が副支部長ということになった。支部長には「発起人委員会の一人であった」ということで北海道大学教授(当時)であった結城錦一氏が就任することになった。当日開票された理事選挙の結果では、加藤成之氏、岸辺武雄氏、神保常彦氏、土田貞夫氏、張源祥氏、辻荘一氏、長広敏雄氏、野村良雄氏、服部幸三氏、皆川達夫氏(以上得票数順)が理事となったが、東北支部については会長が結城氏を支部長に任命し、同時に結城氏が理事を兼ねることとなった。また副支部長は6月4日の東北支部会において互選され、顧問については漸時的な地位であることを総会が承認した上で新支部長が上記2氏を任命した。この体制は個人名の変化はあるものの昭和39年(1964)まで維持され・翌昭和40年(1965)結城氏に代って金田茂氏が支部長となると同時に副支部長制は廃止された。学会は宮城学院女子大の地域活動に接続しながら、一方では全国的な組織の1支部としての体面と体裁をととのえなけれぱならず、一つの妥協として以上のような体制をつくり上げる結果となった。 当時関東支部会員は211名、関西支部会員は127名であったが、関東支部会員のうち東北在住会員の数は22名であった。新設の東北支部の財政約基盤を築くためには、どうしても東北支部会員の増加が望まれるところであったが、そのため学会は新しく会員を募ることとなり、「音楽学会東北支部設立にあたって入会御案内」という文書を発行した。この文書の日付は不明であるが申し込み期限が5月31日とされているので、4月下旬ないしは5月上旬に発送されたものと思われる。 「....東北地方にも音楽学会の支部をという声は、二・三年前から多くきかれておりましたが、ようやく支部設置の動きが具体化しておりました。先般、学会理事会で東北支部設置が決議され、今度の全国大会で支部発足まで進むことになっております。支部の活動と致しましては、年三〜四回の例会、研究発表会、演奏会などを予定しております。/つきましては、東北地方に在住される方々に、この大会に御参加いただき、支部発足に御協力下さいますよう、大会の案内かたがた御願い申し上げます。/会費は年額600円、但し学生400円です.....5月31日迄お申し出下さい。」 この文書発行の結果、正会員は関東支部からの移行会員を加えて30名となり、宮城学院女子大の学生を大部分とする学生会員100名がこれに加わった。これによって東北支部の初年度の会費収入は総額58000円となるが、この年度の東北支部予算によれば本部納入金は40000円であり、予算上では実に会費収入の70%が本部納入金に宛られることになる筈であった(決算では29000円となった)。この予算は当然東北支部の従来の地域活動を圧迫する結果を招く恐れがあった。支部発足後間もない12月3日の役員会の記録は、この問題に関連して、東北支部の声をつぎのように記録している。 「〔かって〕先生達にきて頂いたから我々が音楽学会へ入った。きてくれないと学生の手前悪い」。 すなわち、地域活動時代には可能であった東京からの〔学会外の〕講師招聘が極めて困難になったというのである。東北支部としては、宮城学院女子大の学生会員100名を確保するためにも、講師の招へいを欠かせない事情にあった。筆者自身の筆跡による別のメモには、 「準会員を確保するためにも、講師の謝礼必要。学会と切り離さなけれぱならないこともある。芥川氏のもの年1同学会外の講師その場合は100円づつ集め3ケ月に1度(年4回)研究発表」 とあり、同じメモの別の個所には、 「広告料、賛助金1等は支部の収入にしてもらいたいく今年は本部が支出を行ったことにする)」 「支部としての負担金は必〔ず〕納〔入〕するから支出の仕方については独自の方式にしてもらいたい」 とある。 しかし、一方本部の方では学生会員1名(会費400円)に対して機関誌一冊を与える場合の、機関誌作成費上のアンバランスが問題であった。学生会員が増加すればするほど、学会の財政は機関誌費については危機的となる。寄付金、賛助会費が豊富であれば問題はないが、会費収入をもっとも安定した収入と考えれば、この問題は放置できない。前述の12月3日の役員会記録は、 「○宮城の学生は雑誌をもらっても死蔵するのではないか。一人一人には必要なく、学校におけぱ良い。雑誌の配布を....〔以下請めず〕。○学生のdemandを入れざるをえない。....○学校として一かたまりになった準会員を作った方が〔よい〕。z.B.山形、秋田大学でも....。」 と記している。 発足当初の東北支部は、このように組織の面でも財政の面でも様々の問題をかかえたまま急ピッチでの出発を余儀なくされた。地域活動としての「音楽科音楽学会」は果たして「発展的解消」(6月4日総会)を遂げたであろうか、また「東北支部との接続」(5月5日役員会)はスムーズであったのかどうか、また東北支部の財政は設立当初果たして健全であったかどうか。音楽学会との併合はかえって財政的な不自由を強要する結果になりはしなかったかどうか。もちろんそれらは、東北支部の学会としての内容との比較において評価されるべき事柄であろう。筆者は、当時設立の任務に具体的に関与した者として一抹のうしろめたさを感じざるを得ない。 筆者が岩井宏之氏とともに仙台へ赴いたのは4月24日と5月16日の2回であった。大会準備と会計事務の調整、ならびに現地において賛助会員や広告を募るのが目的であった。60年安保の年であり、また芸大の助手としても極めて多忙な時であった。忙殺された日々の記憶はきわめてうすいものである。ただ東北本線と常磐線の車窓から見た景色はあざやかに記憶の中に残っている。 |
1970年代の東北支部 | 森田 稔 |
私が弘前大学に赴任したのが、1967年の事であったから、その時には既に東北支部は設立後数年を経ていたことになる。69年め春だったと思うが、宮城学院の平島正郎先生から、突然お電話を頂いて、学会の幹事を依頼され、ひどく驚いたのを覚えている。弘前は相当の田舎であったし、私が幹事を引き受けても、あまりお役には立てそうもないと思ったからである。それでも東北支部で全国大会をやるので、是非にと言われて、私としては始めて学会の仕事をお手伝することになった。大学の先生にはなったものの、学間的な訓練がある訳でもないし、確かにロシア・ソヴィエト音楽について研究していきたいとは思っていたが、音楽学について取り立てて意識もはっきりしていた訳でもなく、とにかく学会にはお客様で居ようと思っていたので、ずいぶん当惑してしまった。実際1970年の仙台での全国大会には、1・2度会議に出席した程度で、ろくにお役に立つこともできなかった。もっとも東北支部設立10周年を記念した、第21回全国大会は、仙台在住の会員方の努力で、無事盛会裡に終わった。 私は1971年に宮城教育大学に転任して仙台に移った。72年の委員選挙でいきなり東北支部長に選ばれた時には、今度こそ肝っ玉がひっくり返る程、驚いてしまった。丁度その時期に選挙規定が変わって、選挙の最高得票者が支部長となることになったのである。平島先生が宮城学院をおやめになって、東京に帰られたのが、このような悲喜劇の始まる原因であった。全国委員会などでは、どちらを向いても、昨日まで教えて頂いていた大先生ばかりが並んでおられた。その中で何時も、支部長としての発言を求められて、本当に穴があったら入りたいという実感ばかり感じさせられていた。結局、委員の任期は連続3期を限度とするという有り難い規定ができて、やっと解放きれるまで、丸6年間、この針のむしろは続いた。実に長い6年間であった。 私が支部を引き継いだ時、支部活動は一つの転磯に置かれていたようで、会員数も、じり貧状態にあったし、会費の滞納も随分と多かったように記憶している。世代の交替時期にも当たっていたのであろう。宮城学院から宮教大に移って来られた松原茂さん、新しく弘前大学に来られた笹森建英さん、青森明の星短大の日下昭夫さんなど、私と同じ40歳前の研究者が集まって、東北支部の核のようなものが出来ていった。72年の6月に弘前大学での支部大会の折に、東北線を、6時間以上も普通急行に揺られて青森まで行き、さらに奥羽線に乗り換えて弘前まで行った時、途中で平島先生や松原さんと、えんえんとウイスキーを交わしながら、もう東北支部は返上して,関東にでも合流するしかないと、本気で話し会ったのを覚えている。酔うに連れ、だんだんと大声になって、恐らく同乗のお客さんからは顰蹙を浴びていたのであろうと思うと、遅まきながら恥ずかしくなる。それでも、笹森さんの家に泊めて頂いての支部大会ではあったが、平島先生の公開講演会には、一般の聴衆も沢山集まったし、研究発表も充実していて、帰り道にはすっかり元気を取り戻して、東北支部をやって行こうという活力のようをものを、皆が感じていたように思う。 72年の弘前大学での第5回支部大会がきっかけになって、東北支部はどうやら生き返った。73年には宮教大、74年には北海道教育大札幌分校,75年に弘前大、77年に山形大と、順調に支部大会を重ねて行き、78年には、再び宮敦大で第10国東北支部大会を盛大に催すことが出来た。この間、76年には札幌の北海道青少年会館で、第27回全国大会を担当した。パス会社の失態でエクスカーションのバスが来なかったり、手落ちもあったけけれども、札幌ビール園での懇親会など楽しい思い出もあった。 東北支部は宮城学院を中心にして設立されたものではあったが、私が支部長をしている間に.その性格はすっかり変わってしまった。100名以上もいた宮城学院の学生会員も、0になってしまったし、それまであいまいであった、宮城学院音楽科音楽学会との関係も、はっきりと別なものになって、学会としてやっと独立できたと言えるかもしれない。しかし今でも支部の事務所は宮城学院にお願いしてあるし、音楽学会の支部として、東北北海道で唯一の4年制音楽大学である宮城学院に負う所は大きい。支部の事務局が離れた所にあると不便なので、支部長のいる所に事務局を持って行こうという論議は幾度も蒸し返されたが、その度に結局は宮城学院にお願いすることになったのは、今ととなってみれば本当に良かったと思う。事務局があちこち変わっていたら、何処かで支部が消滅していたかも知れない。何時も快く事務局を引き受けて下きる宮城学院に、感謝したい。 記録によると、1972年の選挙の時、有権者数は53名であったのが、74年には87名に、76年には95名に達した。ここまで来ると、会員数は放っておいても増えていくものらしい。その後は、特に理由も思い当たらないのに、少しずつ増え続け、今では110名前後になり、委員の数もかっての2名から、実に4名にまで倍増してしまった。今昔の感がある。 このように会員数が増えてきた最大の理由は、支部例会の持ちかたにあったと思う。東北・北海道は、べらぼうに広いし、交通の便も悪いので、どうしても会員数の多い場所に例会が偏り勝ちであった。1978年の第10回支部大会の際に、古賀ルイ子先生の労作である「東北支部例会年表」が纏められたが、それによると、1960年から71年までに行なわれた26回の例会のうち、仙台以外では、秋田が2回、山形が1回あるだけであった。そのような仙台中心の例会活動を少し改めて、東北全域、さらに後には北海道も含めて、色々な場所で例会を開くように、方針を変えたのである。1972年から77年までのまでの例会(支部大会を含む)は、仙台(4大学)8回、青森(2大学)4回、北海道(2大学)3回、山形大3回、岩手大2回、福島大と秋田大各1回、となっている。毎年3〜4回の例会を各地で開くことは、僅か3名の委員にとってはなかなか荷の重い仕事ではあった。列車を乗り継いで例会に出席すること自体が、経済的にも時間的にも相当の負担であった。しかし、おしなべて何処へ行っても、その地の会員から大歓迎され、とても楽しい思いをさせて頂いたという記憶ばかりが、強く残っている。 このような文章を書いていると、今年始め(1985年1月10日)に、松原さんが亡くなられたことを、改めて思い起こすけれども、思えば松原さんとも東北各地を随分あちこち歩いたものだ。それも彼を疲れきせた原因の一つになったのだろうか。東北支部も、1980年からは、東北・北港道支部と名称を変えた。音楽学をプロパーとする会員の人教も、既に10指を越えた。70年代の始めには、やっと2・3人が、学会とは無関係に、しこしこと研究を続けていたに過ぎなかった。僅か15年程の時間の経過に過ぎないのに、色々なことが起こったものだなとの感慨を、感じない訳にはいかない。 (1985年8月30日) |
東北・北海道支部 昭和40年代〜50年代 | 笹森 建英 |
東北・北海道支部の歴史を知るために古賀ルイ子、渡部恵一郎氏が『学会30年の歩み−その5』に書かれた支部設立の昭和35年から、10数年間については、どなたか適任の方に書いて頂かなくてはならない。「自分が関わった限りの学会の動きに就いて、気楽な調子で」との依頼に応じて、私が入会した昭和47年から、学会創立30周年に当る昭和56年までの支部の活動の中で、特に私にとって印象的であった事柄を述べる事とする。 その支部大会では、前支部長の平島正郎氏が出席されて熱心に会をもり立てていらしたが、特に私が心を動かされたのは、その後に平島氏が大会の内容について、評価も含めて機関誌に書かれた事であった。すべてを好意的に見て頂き、それを機関誌が掲載するという、学会のおおらかさとでも言うのか、温かさがありがたく、印象的であった。昭和47年に支部長が森田稔氏になり、私は幹事として支部を内側から知る事ができ、その特徴の1つが民主的な運営にあると感じた。こうした学会が持っている性格が、100名を越す現在の世帯に支部を発展きせ得た理由の1つであると思っている。勿論、学会としての厳しさもあるのは当然である。 支部会員のある方が、論文を2度に互り機関誌に提出したが、採用にならず退会された。退会の慰留につとめた者たちにとっても苦い経験であった。それにつけても、支部会員の論文が最近まで1点も機関誌にないのが残念である。 上記の活動の中で講演が多いのは,学生や一般参加者への啓蒙を目的としたためである。研究発表の意義は、自分のテーマについて、自分より優れた研究者の居る所でする事にあるのであり、東北・北海道支部ではその条件がととのっていないと言う意見も聞く。 演奏会についてであるが、シンポジウム「楽曲分析と作曲行為」が札幌例会(昭和55年2月)に於て行われ、その前夜に、支部会員や東北・北海道の作曲家の作品を演奏した。討論は、様式論など、前夜の作品に関わる事柄にも言及せねばならず気配りが必要だった上に、企画そのものに首を傾ける者もあった。その年の全国大会の総会で、はたせるかな、ある会員から「そうした演奏会は奇異な感じがする」との発言があり、企画に関わった私は冷汗をかいたものだった。 『支部通信』は昭和45年に創刊し、役員が手書きをコピーしたり、ガリ版で刷ったりして年に約4回の例会に合わせて発行して来た。タイプ印刷に定着したのは第24号(昭和54年)からである。会見がそれぞれ遠隔の他に散在し、機関誌が出るタイミングでは間に合わない情報や支部独自の案内などを通知させるべく「通信」が 生まれたのであった。 音楽学の領域に教育の問題は含まれるので、当然の事であり、作品論も現代の地方の作曲家の実践を通して、学として高められて行ってよいのではなかろうか。また各支部の活動が結集された形の全国大会もあってしかるべきである。札幌大会(昭和51年)と弘前大会(昭和58年)では各支部からパネラーが出る形でシンポジウムが組まれたが、種々のハンディキャップをもつ支部にとっては有難い企画であった。 地方で他の「○○学会」の名で行われる講習会や研究会は、主として音楽教育の分野で盛んであるが、全国規模のアカデミックな学会は、本学会ほどに活発に活動していない。それは支部が確立されていないからである。東北支部の名称も、東北・北海道安部となり、全国大会も引き受けられるまでになったのはありがたいことである。 |
金田 茂先生のプロフィール | 高橋 惇 |
30年前の記憶については、全く自信のないまま、おぼろげなものをつかもうとしています。 故金田先生は、昭和30年代前半に秋田大学音楽科の教授として教べんをとりながら、音楽学会の東北支部長の任につかれておられました。当時、東北では仙台市の宮城学院女子大学音楽科にその支部をおき、まだ数の多くないメンバーで構成されておりました。秋田と仙台の距離のなかで、総会や例会の企画をなさり、電話もなかなか通じない時期でしたので、それらの実行にはかなり御苦労があったようです。しかし、先生の偶にあった若輩の私に幹事を命ぜられたり(当時秋田の学会員はたしか数名と記憶しています)して、東北支部の運営をスムーズにと努力されていました。「学会30年の歩み −そのひとこま− 思い出すままに、その1」にあります、第1回全国大会の写真の中に、金田先生のお姿を見出し、感無量であります。 昭和37年と39年に東北支部の例会が秋田大学で開かれました。当時の秋田は、音楽学関係については全くの不毛の地であって、音楽活動は殆んど演奏のみでした。先生は常々「音楽の実技と理論は車の両輪の如し」と、当時の技術偏重の音楽界へ一石を投じられました。そして、事あるたびにこれを力説されましたが、なかなか理解を得られず、あげくの果てに金田先生個人さえ理解されない状態もしばしばでした。こうしたなかでの秋田での画期的ともいえる、昭和37年9月の例会は、参加者も少なく、数名の学会員と20人ほどの学生会員でした。古ぼけた木造校舎の一隅で行われましたが、研究発表は喬木次男氏(秋田大学−聖霊女子短期大学)と私の二件のみでしたが、当時学会会長であった辻荘一先生が御参加下さり、「学校音楽教育の危機」と題する、また、結城錦一先生が「音階の心理学」と題する御講演を下さり、花を添えていただきました。昭和39年9月に、秋田では二回目の例会が開かれましたが、現在秋田大学教授の佐藤敏姓氏の他3名、計4つの研究発表があり盛会でしたが、秋田以外からの学会員の参加はなく、若干寂しいものでした。 その後、先生は東北支部長として捻会や例会のたびに仙台市へ出向いておられましたが、地理的な問題もあって、やがて支部長をひかれたようです。多分、かなり気苦労の多い支部長時代だったと思いますが、現在の東北支部の基礎をしっかと固められたことは、大きな功績であったと思います。 金田先生は、学会誌にも幾編かの論文を発表しておられますが、それに目を通すたびに先生の御研究の深さを思い知らされております。当時、秋田大学で、西洋音楽史I・II、音楽美学、音楽特殊講義等それぞれ4単位の講義を開かれ、御自身受持たれた音楽科学生のピアノのレッスンに陰に陽にそれを反映され、まさに「車の両輪」のお言葉の通りに、教育にも尽力されておりました。また、毎年10人ほどの卒業論文の御指導もなさいましたが、それぞれのテーマの設定から結論まで、一人ひとり、一字一句、細部にわたって目を通されていたお姿が、いまだ目の底にやきついております。今、その指導をうけた学生達は40代、50代の中堅として、音楽教育の道に励んでおりますが、秋田県の音楽教育の基礎となっているのは、金田先生のそうした御研究と熱意に支えられているといっても過言ではないと思います。 |
第21回全国大会(仙台)の頃 | 平島 正郎 |
私が旧制東大の美学科を卒業したのは、1951年3月のことでした。先々についておもい迷い不安にかられながらひとまず大学院に進みましたが、現在とちがって当時は、学部を終えれば希望次第で試験もなく同じ学部の大学院になら進めたのです。その1951年のいつごろだったでしょうか、音楽学会が設立されるという話がおきて、設立準備会がこれは何度ひらかれたのだったか、そして私どものような大学院生がなんでそこに陪席をゆるされたのか、どうも記憶がさだかでありませんが、席上で神保常彦先生がくりかえし時期尚早論をぷたれたこと、これははっきりおぼえています。にもかかわらず学会は生まれ、私も入れていただきましたが、第1回の会合−大会?−がいつどこであったのかというようなことになると、さて、我ながら物覚えの悪いのにますます情けなくなります。ただ、翌52年4月から2年あまりNHKに勤めて、学会から遠いところにいたのが、この記憶の脱落と、いささか拘わりがあるかもしれません。 NHKを辞めたあとも、あるときは新聞・雉誌の仕事に追われ、あるときは1967年まで勤めていた桐朋学園音楽科での雑務に追われて、せいぜい暫くのあいだ「音楽学」編集を、現在の言いかたで言えば幹事としてお手伝いしたくらいで、そう密接な関係を学会とのあいだに持っていたわけではありませんでした。それが密接とあえて言えなくもない間柄になったのは、67年に桐朋を辞めて仙台の宮城学院女子大学に勤めることになってからです。あるいは東北支部に所属するようになってから、と申しましょうか。それも東北支部設立10周年記念として全国大会を、1970年、宮城学院女子大学で開催したときから、と言えばいっそう正確でしょう。会場校の音楽学担当専任教員として、私が同大会の実行委員長をつとめることになったおかげです。 大会は、70年10月16日、17日の2日間にわたっておこなわれ、通算第21回目にあたる全国大会でした。ラウンド・テーブル、シンポジウムといった討論形態が盛んになるまだ前で、第1日目の午前に五つ、午後に三つ、第2日日の午前に五つ、いわば伝統的なかたちでの研究発表が、ありました。第1日目の午後に三つしか研究発表がなかったのは、特別演奏の催しと總会とが続いて日程に組まれていたからで、特別演奏は、館山甲午氏による平曲<大原御幸><宇治川>からの抜粋でした。演奏はもとより、演奏後館山氏が伝統音楽研究の必要性を日本音楽創造のために力説されたのが、印象にのこっています。2日日の午後は、学会が企画した公開講演会と、懇親会でした。公開講演は、「民謡のこころ」と題して浅野建二氏が、「ベートーヴェンと現代」について野村良雄、渡辺護の両教授が、話されました。出席者は両日午後の催しを別とすれば、常時ほとんど100名を超えず、分科会をひらくといった余地も持てなくて、いささか小ぢんまりとした全国大会でしたが、当時の東北支部の実情からすればまあ精一杯といったところだった、と言っては、実行委見長の自画自賛めくでしょうか? それにしてもいわば地元の東北支部から2名しか発表者が出なかったのは、さびしいことでした。この全国大会(第21回)の発表について、記録係の戸口幸策さんは『音楽学』第17巻1号の大会記録で、次のように述べておられます。「一般的に言えば、新しい方法や新しい角度の研究、新しい考え方が世に問われる面があったのは喜ばしい」が、一方、「真の学問的業績とは、世界的な規模における業績の全集合に対し、小さくてもいいから何か新しい事実なり考え方なりを付け加えることだという認識を新にすべきではないかと思わせる面もあったような寛がします」。 学会の歴史を考える上で見逃せないのは、会長、委員の選挙規定が以下のように改正されたことでしょう。 1.第6草案8条 支部長は各支部の委員の中の最多得票者がなる。(筆者註,それまではどうだったのか、私はよくおぼえていません。改正原案は「最年長者がなる」ということでしたが、上記のようにこの總会で修正されました。) 2.第6章第12条 役員の任期は2年とする。(それまでは何年だったのか? 当時の執行部が出した改正原案では、参事が4年、その他の役員が2年、となっていた。) 3.第6章第12条 ただし会長および委員は、それぞれ連続4期以上つとめることができない。(これはのちにまた改正され、現在、会長は3期、委員は2期連続してつとめると、次の1期それぞれの被選挙権が停止されることは、御存じのとおりです。) この改正が審議されたとき、私は議長団の一人でしたが、絶会への委任状をどう扱うかが問題になって揉めたことを、いまでもおぼえています。審議・決定の際の採決にまで委任が有効か否かで、揉めたのです。やむを得ず、これは現にいる出席者に限るのをお許しねがってその採決にゆだね、有効とするもの32票、否とするもの33票、なんと1票差で、委任状を採決の際は数えないことになりました。私の記憶にあやまりがなければ、当時は總会成立の条件である定足数さえきまっていなかったのですから、おおらかだったというか、しかし何のための委任状かと問われても仕方がなかった、という気がします。 72年の4月から、私の勤務先は、明治学院大学にかわりました。ですが東北支部長の任期が72年度總会まででした(と思います)ので、同期のもう一人の委員だった古賀ルイ子さんの希みもあり、任期末まで同支部所属のままでいることにしました。おかげで私はもうひとつ、東北支部にかかわる思い出深い経験に出会います。72年6月3日・4日に弘前大学教育学部を会場校として、東北支部大会が行われたのです。支部発足以来第5回目の支部大会であるということでしたが、初日の午後と2日目の午前にあわせて五つの研究発表−笹森建英氏(弘前大学)の「琉球古典音楽の音組織」が、とりわけ中身の濃い発表でした−と公開講演−があり、熱い関心が会場にみなぎって質疑応答も活発になされ、かなり成功した支部大会だったと言えるように記憶しています。両日とも出席者数はおのおの40名くらいだったでしょうか。ずっと関東支部所属だった私には、<支部大会>という催し自体、なじみのないものでしたが、関東支部とちがい会員が東北・北海道の広汎な範囲に散らばっている東北支部(のちに東北・北海道支部と改まって現在にいたっているのは、ご承知のとおりです)では、それがいかにも存在理由をもつということに、この支部大会を経験してみてよく納得がゆきました。そして嬉しかったのは、上記笹森さんや森田稔氏(宮城教育大学)、松原茂氏(同上)ほか若手(当時の、ですが)の方がたが、この先きっと着実に東北支部をに率い発展させて行ってくれるだろう、という、希望がもてたことでした。(附記すると、この第5回支部大会で発表をおこなった元支部長金田茂氏と、いまお名前を挙げた松原茂氏とが、すでに故人となられました。記して追悼の念を捧げます。) なお72年といえば、複数の個人研究発表に全員参加のシンポジウムー、といった全国大会のこれまでの方式に加えて、複数のラウンド・テーブルを行うようになったのが、広島のエリザベト音楽大学を会場校とした72年秋の大会からだったと、おもいます。 こうした大会の持ちかたの変化は、根底に私たちの音楽学研究の現状況をめぐる反省的な意識をともなってのことであっただろう、とおもわれます。それでたとえば−私がとくにかかわりをもった限りで言うのですが−1977年10月の第28回全国大会(会場校・東京音楽大学)でのように、「日本の音楽学の現状」を研究発表と討論の共通主題とするといった試みも、なされなければならなかったのだとおもいますが、この種の問題は、おそらく折折に問われ、かつ問われつづけてこそ意味があること、と言うべきでしょう。とはいえ日本の音楽学史の一章にほかなるまい「音楽学会史」のそのような局面に立ち入る準備も余裕もなく、いまはお許しねがってささやかな一時(イットキ)の役員の個人的身辺?的回想にとどまらぎるを得ないようです。 72年の全国大会のあと閑東支部所属に戻った私は、編集委員を1期と、支部会計1期、本部会計2期をつとめました。その会計委員のころ、機関誌『音楽学』がなぜか定期的には出なくなり、おかげで予算を使いのこした結果、学会のフトコロがそう貧しくはないような錯覚をいただいた向きもあったようです。いや、他人事めいた口はきけません。会計委員の展望も甘かったのは事実だとおもいます。しかしすでに82年度の絶会(会場・金城学院大学)では、81年度の決算で、大幅におくれていた機関誌発行が取り戻された分、支出が倍近く増えて愕然とし、83年度予算案を提示した際に会計として本部財政の逼迫をうったえたくらいですから、いつまでも錯覚に安住していたわけではありません。しかもたまたま学会30周年を迎えて記念行事等のため支出がさらに増し、中部支部の設立準備にも思わざる出費があって、82年度の決算はついに大赤字となりました。ですからこれは必ずしも本部会計の責任とは言えないのですが、ただ、もし先がよく見えた会計委員であったら、82年度の組会で補正予算を出し承認を受けていたことでしょう。シロウトの悲しさ、それができなかった不手際は弁解の余地もなく、その上決算報告をしなければならなかった83年度總会に急病のため出席できなくて、釈明陳謝の機会を失ったばかりか、関係各位に御迷惑をかけました。せめていま、紙上をおかりして会員の皆さんに、はなはだ後れ馳せながら改めておわび申し上げる次第です。 |
東北支部長就任の頃 | 結城 錦一 |
音楽学会元東北支部長の資格で書く「思い出すままに」の記事などは、本来ならば古賀ルイ子さん執筆の「その5−東北支部設立の前夜」にすぐ続いて出るべきものなのに、ずっと後年の支部事情まで残りなく語られてしまった今日まで捨ておいたとは、怠慢の至りで弁解の余地もない。実はといへば、その初代東北支部長どのは怠慢支部長の見本のようなものであったので、その回想などにはいつも自責の念がまとわりついていて、それが「文責」の重圧とからまり合って、却って書くことからたじろがせていたのだった。 かく申す私自身はそのころ、北大文学部で心理学(実験心理学)の学科の創設と運営とに全責任を負わされており、その一方、学術会議会員に選ばれていたので、札幌と東京との間をしばしば往復する立場にあった。 或る日、親しくしていた辻荘一氏と、東京で音楽学会の将来像などについて話し合っているとき、辻さんから、いずれ東北に支部ができるペきだが、その実現に協力してくれないか、場合によっては支部長を引き受けてはくれまいか、という誘いを受けた。 辻さんは言った。《あなたは札幌東京問を列車で往復する気だろう。それならちょっと仙台で途中下草してくれればよい。そしてその日僅かの時間だけ東北支部長の椅子に腰を下ろして、支部長らしいボーズを取ってくれれば事足りる。細かい運営の筋書きづくりやその実行は、支部の核となる宮城学院女子大学にいる有能多才の美しい女性群がすべて事を取りしきる。それに自分も時々は束北大学に臨時講義に出かけることもあるから、あをたほ決して孤独ではない。云々》 これはちょっとイカスなあ、と思ったのがどうやら間違いのもとだったようだ。こうしたはずみにうんうんと簡単にうなずいてしまったため、やがて昭和35(1960)年6月4日午後の支部設立宣言の瞬間に東北支部長の椅子に腰をおろすということになってしまい、爾後二期四年間、仙台での途中下車を繰り返しては、この座にぬくぬくと座りつづけることになってしまった。辻さんの見通しのとおり、女性群の動きはまことに溌溂として多彩。そういう環境での支部長の地位はまことに冥利の極みとも感じられた。 かくして怠惰きわまる支部長が育成されて行ったのである。 ところで辻さんとの話合いにも出たのだが、音楽学会を、ゆくゆくは先進の諸学会のように研究発表の場としても一層充実させて行かねばならぬ。すでに四年ほども前から宮城学院女子大学では、学院内に小さな音楽学会をつくって、内外の第一級人を招いて何回か学術講演会を催していたのだから、正式に音楽学会東北支部となったからには、この種のことを一層発展させ、会員の新しい研究成果もどんどん発表し新知識を交換する場とすべきであると感じられた。 そこで自分自身も発表陣営に加わることにして、まず昭和36(1961)年9月、宮城学院での例会で「ヴィプラートについて」の題で、自分の研究結果を講演の形で述べた。 ヴィプラート(高低ヴィプラート)は周知の通り絃楽などでの日常愛好の技法だが、さて或る高さの音をヴィプラートで出すには、手の振り方はどうすればよいのか、−所望の音を振り巾の「山」に当たるところで出すように低い方へと振るべきか、それとも「谷」のところで出すように高い方に振るべきか、ないしは「中間」に当たるようにふるべきか、について、音楽家の主張は三種あって決まらず、教則本の指示も一致しない。 そこで私はこれを実験的測定の盤上にのせて調べた結果、意外な面白い「ヴィプラート法則」を発見し、これを心理学の国際会議でも公表して注目を受けた。そこでこの問題を主題としてみたものであった。 続いて翌年9月には、辻さんと一緒に秋田大学に出かけ、私の方は「音階の心理学」をしゃべった。地球上の民族をひろく見渡すと、中にはたった二度音程だけでこしらえた音楽しか有しない種族がある。それでも一応音楽の部類であるとすれば、音楽における音階とはそもそもなになのか、という設問のもので、これはひろい意味での音楽の発生史の課題なのであった。 また昭和38(1963)年4月の宮城学院での例会における「ヴァイオリンの美しい音色の出し方」は、音楽技法の「精神動作学」的観点からのものであった。「音楽動作学」とは実験心理学の分野のものと理解して頂きたい。 こんなおしゃべりは幾らかお役に立ったかも知れないが、かんじんの支部長の仕事の方は無為無策を四年間ぶっ通し、無能怠慢支部長の見本ができ上がってしまった。 ただこうしている間に一つ気にかかっていたのは、学術会議との関係である。学術会議は選挙制なので、音楽学会のような会員数の少ない学会からは、これに代表者を送る見込みは立たない。そこで心理学から選出されていた私は、学術会議の中で音楽学の利益代表をも兼ねようと勝手に決意して、それ以来機会あるごとに音楽学のために発言するに努めた。とくに国際会諌へ学術会議から代表者を送致する関係の会議では、国際音楽会議のある場合には、音楽学会から推薦の候補者を毎回必ず一名国費で派遣するようにと力説し、やがて野村良雄氏がその第一号に選ばれた。この慣例は幸いにもその後も続けられたのは、何よりも満足に思はれた。これは支部長としての私の怠慢のせめてものつぐないであった。 その支部長の方も、昭和40(1965)年3月の私の北大定年退官を切れ目に返上することになった。これ以後私は関東居住者の身分にもどり、もはや仙台中心の振子運動には乗れなくなってしまったからである。これを機会に私は新進気鋭の後継者にバトンをおわたしすることになった。ただ学術会報の中での音楽学の利益代表的立場だけは、昭和50(1975)年ごろまで続けたつもりである。 兎にも角にも、私が四年間にわたってぬくぬくと東北支部長の席に座って居られたのは、繰り返すようだが、わけて宮城学院女子大学関係の方々の絶大を努力の賜物である。古賀ルイ子さんの「思い起すままに−その5」の行間にはそのことがにじみ出ている。そしてそれを述べておられる古賀さんご自身の若き日の、ひたぶるで献身的な麗わしの姿が、その核心のところでいつも輝いていたのが、当時を回想する毎に、今でも私に鮮やかに浮かんでくるのである。 |